教育論とかまどっろっこしいけど、ちょっびと論じるよ。

相撲部の体罰の話を、身近な人が話していました。

「昔は(もっと暴力的だったけど)そんなことで問題にはならんかったぞ。それくらい厳しくないと強くならんしww」

みたいなことを言っていたので「問題にならなかったことが問題なんですよねー」と言ったら面倒くさそうな顔をしていました。たぶん、今の若者が非常識なのは過去に厳しくされなかったからだと信じているのでしょう、普段の口ぶりを合わせると。

うちの父もそうですが、「昔はよかった」という懐古厨にうんざりしている今日この頃。

昔は「途中で水を飲むのを我慢できないのは甘え」みたいな超理論で(下級生だけは)部活中の水分補給を制限されていることが多かったのですが、今ではそんなことを強いると「体罰」やら「虐待」などと問題になります。なんせ、「死」に直結していますので。

体罰も「これくらい懲らしめておかなければ本人の為にならない」と言うことで昭和時代は容認されてきました。

でもそれって痛めつけていうことを聞かせるだけで、本人が気づいて自発的に行動するきっかけにはならないんですよね。

痛めつけたらわかるなんて思うほうが、よっぽどおかしいと思います。

そもそも、「厳しくする=痛み(罰)を与える」の理論が破たんしていることを理解する必要があります。

厳しいつもりで罰を与えても「こんなに大変なら次はきちんということを聞こう」なんて本人は思いませんし、思っても繰り返します。繰り返さない人も居ますが、全員そうなることは皆無です。

痛みやつらさを我慢しておしまいです。ひどい目にあったなーくらいの感覚です。

厳しくするなら、声を荒げず、穏やかな心で、繰り返し正すように言うことの方が効果があります。

なぜ声を荒げたり罰を与えるかというと、その方が簡単だからです。

穏やかに繰り返すのは根気も要るし、すぐに結果を見ることができず、とてもストレスになります。

相手がわが子であった時、特に注意しなければならないのは愛情とリンクしていて、怒りを向けられるのは愛されていないからだと感じることです。

怒鳴りながら「お前の事が大事だから叩くんだ」なんて言うのは愛情の搾取です。愛しているから叩くなんて、どこのモラハラですか?!

大事であることは言葉と行動にあらわさなければなりませんし、愛情を免罪符にしている間は、子供は自分を大事にできません。

 

長ったらしく語りましたが、教育は愛情に根差していなければ拷問であり、将来の歪な思考につながりかねません。よその子でも一緒です。歳も関係ありません。存在を認められることがすべての始まりだと思うのです。

自分の感情を優先するから相手を威圧するために声が大きくなり、罰とは自分の気持ちを満足させるための行為で相手ではなく自分のためであるということを肝に銘じ、本人が自覚して行動できるように導いていける人が増えることを希望します。